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食育月間セミナーに参加

6月27日、関東農政局の主催で平成24年度食育月間セミナーが開催されました。
食文化研究家の魚柄仁之助氏の講演「非常時をたくましく生き抜く力は日常食から」やパネルディスカッション(コーディネーター 田中久子女子栄養大学教授)がありました。魚柄氏の講演の概略を聞き取りまとめで報告します。

講演「非常時をたくましく生き抜く力は日常食から」

明治以降の近代化の中で日本人の食生活の変化を研究している。
日本人は災害などに遭っても、暮らして行けるような食生活をしていたのではないかということが、研究の端々の中で見えてきた。私などが言うと信憑性がないのだが、大正時代に内務省が作成した本などにも無駄なく暮らしていくというようなことが書かれている。こうした内容は食文化の世界では残ってこない。美食に関するものなどは誇張されて、伝聞されている。また、庶民はこうして飢えを凌いだというようなことは、語り草で根拠が分からなくなっている。そうした中で伝統食はこうだ、ああやれ、こうやれといっても、若い世代の人達は弁当を買って食べたほうが、簡単で楽だと思っておもっている。
そういう人達にどうやって動機付けさせ、実践させるか。やってみようと思わせるには、かっこいいとか、面白そうだとか、健康に良いとかを実践して、その結果を見せないとだめだ。言葉だけではだめで、これは健康にいいと言っても、言っているその人がメタボでは説得力は無い。
社会がどうなろうとも、人は食べることを止めることはできない。
食は人間の根源であるといわれるが、これは、きれいごとではなく、極限状態になれば、人は必ず何でも食べる。以前、福岡でも地震があった。その時、災害が何時起きても食の確保が大丈夫なように、普段から実践しておかないとだめなことを痛感した。災害に備えて食料を蓄えて置くことは、寺社でお札を買って置くのと同じことだ。普段からどういうことを実践しておけば、災害時にも食べていけるのかを考え、実践してきた。
非常時にどう食べるか。
非常時を地震災害とか、津波とかと考えるが、それは短期的非常時だ。災害直後の1週間くらいは、本当に食うや食わずだが、非常食はいろいろある。だが、その先に避難所生活があり、仮設所生活があり、非常時が1~2年と続く。江戸時代に浅間山が噴火した時には、噴煙が空中に残り、冷害の要因となった。この飢饉では多数の餓死が出た。大きな災害が発生すると、非常時が2~3年続く。東日本大震災を経験した今日、こした考え方を大げさだという人は少なくなった。
大きな災害が起きた時、手元に何を持っているか。
それでどうやって生きていくのか。気仙沼の人や石巻の人は非常持ち出し袋に乾パンもラジオも懐中電灯も入れておいたが、全部津波がもっていってしまったと言っていた。結局、着の身着のままになってしまい、その時役立ったのは知恵と知識と体力だった。今の非常食というのは、知恵も知識も体力も要らない、これだけ置いておけばいいというもので、一番受け入れられ易い。お店に行けば普段も食べられる、おいしい乾パンが売っていが、これが流されたときどうするかだ。
東日本大震災のとき、全国から善意で、食料品がたくさん届いた。例えば、避難所では食パンが1人1斤ずつ配られた。その人たちは、食パンから乾パンを作るという知識持っていなかったから、食べ残した食パンを無駄にしてしまった。乾パンとして買ってこなければ乾パンでないというのは、頭が休憩している。日本人はいつからこうなったのか。高度経済成長以来、スーパーやコンビに行けば、なんでも、いつでも買えるようになった。そうなって思い上がってしまった。僅か50年前、ひもじい、ひもじいと言っていたことを完全に忘れてしまった。食べることの知識を取り戻さないと、物を持っていても役に立たない。避難用にあれ買っとけばいい、これ買っとけばいいというのは簡単だ。言うだけで済むから、言う側も、それだけを言う。
普段から非常食を食べてないといけない。
非常食というが、非常時だけ食べるものではなくて、日常食べているものでないと、食は進まない。普段から乾パンを食べていろというのではなく、普段食べているパンを乾パンとして保存し、食べるということもするべきだ。非常食と日常食の垣根を取り払い、普段食べているものが非常食にもなるという知識と知恵を持つことだ。

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